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晋州城(진주성)

更新日: 2021-08-02

Description

[觀光地]
韓国南部・慶尚南道(キョンサンナムド)晋州(チンジュ)は数々の歴史的な出来事が起きた場所として有名です。壬辰倭乱(日本で言う「文禄・慶長の役」)の三大大捷のひとつ・晋州大捷壬辰倭乱の際、義に殉じた妓生・義妓として有名な論介(ノンゲ)の殉国、1862年全国的な広がりとなった農民抗戦の始まりとなった晋州農民抗戦など数多くの歴史に残る大きな出来事が起きた場所です。
この晋州城(チンジュソン)は三国時代には居列城(コヨルソン)、高麗時代のには矗石城(チョクソクソン)と呼ばれ、朝鮮時代になり現在の名称・晋州城と名を変えました。
石積みされた城郭の全長はおよそ1,760m(4,359尺)、高さはおよそ5mから8m、城郭内には井戸や泉がそれぞれ3ヵ所あり、軍倉があったといいます。
朝鮮時代の地理書「東国輿地勝覧」に書かれた河崙(ハ・リュン)(1347~1416年)の『城門記』によると、城跡だけが残りいつ築かれたのかはっきりとは分からないものの、倭寇の侵入が頻発し、高麗時代の禑王(ウワン)5(1379)年にここ晋州を治めていた文官・晋州牧使の金中光(キム・ジュングァン)に命じ築城させたとものと言われています。当時、城郭の周囲は800歩(1km弱)で、城の高さは3キル(約7.2mないし9m程度)を超え、義正門(ウィジョンムン・西側)、智済門(チジェムン・北側)、礼化門(イェファムン・南側)があり、城郭外は西へ青川(チョンチョン)が、南側にはキンガン(長い川の意味で漢詩では「長江」と表現。現在の南江=ナムガン=のこと)が流れ、北側には池があり、城郭と池の間には塹壕を掘ったといいます。

高麗時代末に倭寇防衛の堡塁として直し積み上げたこの城郭は朝鮮時代の宣祖25(1592)年に壬辰倭乱が勃発した際には韓国南西部・湖南(全羅道)へ兵を向けようとした倭賊を防ぐ関門となりました。
壬辰倭乱三大大捷のひとつ・第一次晋州城の戦いではおよそ3,800人の兵で10倍に近い兵力を極める倭賊を撃退し、また晋州城を死守することで朝鮮の穀倉地帯である湖南地方を守りぬくことができました。
しかし、続く1593年の第二次晋州城の戦いでは民・官・軍総勢およそ7万人あまりが約10万人を率いる倭軍と対峙し11日間の熾烈な戦闘を繰り広げましたがすべて殉義する結果となってしまいました。この時、義妓として有名な論介が敵将を抱え南江に身を投げ、忠節を全うしたその場所でもあります。
現在、城郭内には矗石楼、金時敏(キム・シミン)全成却敵碑、義妓祠(ウィギサ)、西将台(ソジャンデ)、 北将台(プクチャンデ)、 彰烈祠(チャンヨルサ)、国立晋州博物館、護国寺(ホグクサ) 、野外公演場などがあります。


* 義妓祠

慶尚南道文化財資料第7号・義妓祠は壬辰倭乱当時(1593年)倭将を抱きかかえ、南江に投身した義妓・論介の肖像と神位を祭った祀堂です。
論介は晋州城が陥落すると、城郭内にいた人々や国の怨恨を晴らすため、倭将を矗石楼の下の義岩(ウィアム)へおびき寄せ、敵将を巻き添えにして自らも南江に身を投げ殉国しました。
義妓祠はこの義を重んじた忠節を称えるため、英祖16(1740)年に慶尚右兵使・南徳夏(ナム・ドカ=1688~1744年)が創建、以降2回にわたり重修を行い、現在の建物は1956年に義妓彰烈会が市民から募金を募り重建したものです。

Information

Address: 慶尚南道 晋州市 南江路 626 (52692)
data provided by Korea Tourism Organization
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